テキストボックス

 これは箱である。中身はまだなにも入っていない。広さはA4サイズのコピー用紙二枚より小さく、手が入るほどの深さがある。光沢のない象牙色はプラスチック製品とも似ているが、外側の隅に「再生紙で作られています」というラベルが貼られている。壁の裏側にも小さなメモが貼り付けられているが、ここからは読むことができない。箱の置かれた書き物机を照らすカナリア色の卓上灯によって、箱の壁と裏側のメモが机上に影を作っている。
 壁は三ミリメートル程度の厚みがあり、見かけによらず丈夫そうな印象を与える。仮に数百グラムの白砂(石膏でもよい)を流し込んだとしても、壁が破れて中身が溢れ出すこともないだろう。敷き詰められた砂を指先で押さえつければ仮の地形を形作ることも可能だ。このような目の細かい砂であれば山岳地帯や海岸線などの精緻な再現もできるが、ここでは指先を揃えて簡単な平野から作ることにする。
 整えられた地平を横切るようにして三本指で太めの線を引く。その太線は川となり、色のない土地に想像上の水が流れ出す。川の上流付近には田畑が広がり、南方は工業地帯となる(指で大きく工場の地図記号を描く)。そこへ川を横切るようにして人差し指大の幹線道路が開通する。幹線道路の一方は私鉄の駅前へと通じており、もう一方は高速道路のインターチェンジ付近を通過する(私鉄路線と高速道路をハの字になるように敷設する)。駅前ロータリーへと近づくほどに宅地開発が進み、人口の増加に応じて小中学校や公民館などの公共施設が建設される。駅前通りの交差点にはコンビニエンスストアや大手量販店が進出した。サークルKサンクスに至ってはこれで三軒目だ。
 二軒目は三年前、地上波アナログテレビ放送の終わった年に開店した。それまで駅バス停前のビル一階は純喫茶サトミだったが、店の主人が09年に亡くなったため惜しまれつつも廃業となった。サトミはかつて人の絶えない店だったという。ジャズ喫茶として七十年代末に営業を始めた当時から好評だったブレンドコーヒーもさることながら、店の看板犬として長らく親しまれた柴犬ハチの存在感が大きかった。玄関先で雨の日も背筋を立たせて客を待つハチは常連から「招き犬」と呼ばれ、彼の頭を撫でるためにサトミへ通った客もいたほどだ。ここもさみしくなったねえ、と停留所のベンチでバスを待つ老婦人が呟く。沈んだ声は看板犬に代わって軒先を囲む放置自転車の群れには伝わらなかった。
(駅ロータリー中心部に設置した時計の短針を指で二つ分進めてみる)
 午後四時過ぎ、ようやく荘介が硯石駅に到着した。四月の曇天はまだ肌寒く、悩んだ末にジャケットを羽織らずに来たせいで浮かない顔で身を縮こませている。上目で見上げた空は雲に覆い尽くされ、なにか重い蓋で一方的に閉じられたようで、彼はますます気が滅入った。
 ったく、こっち出た時は暑かったのに。と彼は愚痴をかみしめ、都内の自宅マンションを出た十一時頃に未練を残す。私鉄下り列車の景色を脳裏に浮かんだ。高層ビルの数が減るにつれ、農地や工場が増えていく様相。都市開発の記録映画を逆再生したみたいだ、と三流詩人の彼は見たこともないもので密かに喩えてみる。
 彼はそのままバス停の方に足を進めた。ロータリー向こうのCDショップが妙に懐かしく感じる。待ち合わせの相手はまだ来ないようだ。そぞろ歩く足は自然とサンクスへ向かう。自動ドアが開く瞬間、道すがらの放置自転車に張られたラベルの黄色がガラス窓に反射してやけに眼に刺さる。
「Kってさ、どういう意味なんだったっけ?」
 店内でふいに話しかけられる。菜摘の声だ。振り向くまでもなく、待ち合わせの相手がそこにいた。ちょうど缶ビール二本とサンドイッチ、チョコレート菓子、週間少年ジャンプなどを買って出る間際だった。「は? ってか居たなら声かけろよ」「ごめん。今日、進路説明会とかいうのやってて」制服姿の彼女はごまかし笑いを浮かべて手を合わせた。その指先に絆創膏が巻かれている。髪はすこし広がっていて、毛先がはねたままだ。せめて服着替えてから来いよ。手ぐしで菜摘の髪を整えてやると、彼女は身体を寄せて僕に甘えるように目を細めてみせた。
 思えばこうしてコンビニ袋を提げて夜道を歩くのも久しぶりだ。私鉄を乗り継いで菜摘の町に初めて来たのはだいたい一年前、僕が軽音サークルを辞めた頃だった。都内まで電車で一時間そこら、遊びに行こうと思えば行ける程度の距離、ベッドタウンってやつはそんな生ぬるさがよくない。高校一年の頃から聞いていた銀杏BOYZナンバーガールといったバンドのボーカルたちは必死で上京してきたというのに、高校の同級生たちは近所のイオンやドンキでそこそこ楽しそうで、そんな湿気った布団みたいな空気の壁に閉じこめられて緩やかに死んでいく気がした。
 絶対、都内の大学に行ってやる。そしたらバンドを組んで、あの白くぼやけた壁をぶち抜いてやるんだ。
 なんてことを考えてたくせに、いざサークルに入ってみたら邦楽しか聞いてない先輩のチケットノルマでなけなしのバイト代を溶かすばかりの日々で、新歓でメアドを交換した子はそいつと付き合い出したりして、地元の通学路で赤本片手に見てきた夢が触れたとたんに崩れていくのを感じたんだ。
(不意に荘介の手が引かれる。ふらついた踵に点字ブロックの感触が響き、見上げた信号の赤に気づいて足を留める。ポリスチレン製の袋の手提げ部分は荘介の汗で滲んでおり、爪の先から白い砂粒が落ちると菜摘は思わず引いた手を少し緩めた)
 ああ、また赤か。こんなことばかりして、結局どこにも行けやしない。
「ねぇ聞いてた? 河童さんの新曲、再生回数が」
 その話はもういいよ。ってかよくそんな話する気になるな俺の前で。「だって、私が一番最初に『歌ってみた』のって河童さんPVの曲だったでしょ」コンビニ袋から菜摘の手が離れて思わず目を向けてしまう。ひそめた眉と細めた両目は睨んでいるような顔をしていたが、僕の遠い向こうに目を凝らしているようでもあった。どのみち菜摘の手はここにない。通り過ぎてきた信号が『通りゃんせ』のメロディーをけたたましく流している。
 厳密にいえば菜摘より北川君と出会った方が先だ。向こうは小学校の頃、駅前のスイミングスクールに通っていた時から僕のことを知っていたらしい。僕がボカロP——自分の作った曲を自分の声で歌わず合成音声ソフトに歌わせてネットに流しているアマチュアミュージシャンの総称だ——を始めた頃、まだ再生数が千回も越えてない頃にTwitterアカウントをフォローしてきたのが彼だ。デザイン系の専門学校に通っているらしく、僕の曲に一風堂のラーメン一杯でイラストをつけてくれた。それが“うたたねP”名義で楽曲を発表する僕と絵師“河童ぐるま”君との初めてのコラボ動画となる。
 その時の曲を聴いてフォロワーになった一人がいま隣にいる歌い手“ドーナツ”こと菜摘だ。とはいえ、北川君の紹介で菜摘と初めて顔を合わせた頃にはもう、あいつと関係していたのだが。
 うたたねさん、と彼女が僕を呼ぶ。互いの本名や顔や好きなマンガや寝顔まで知っていても、ネットで知り合うとハンドルネームをしばらく引きずるものだ。彼女がふざけてわざとそう呼ぶ時、含み笑いが小さな吐息となってその声に混ざる。糸がほどけていくように繊細な声質、それだけで僕はいつもやられてしまう。こんなたやすい心を年下のあの娘に知られたくなくって、つい機嫌の悪そうな顔ばかりしてしまう。あの声を呼び寄せるために曲を書き続けてきたのかもしれない、と冗談抜きで思っているのに。
 ……などと無粋な聞き耳を立てながら荘介が通り過ぎていった児童公園では三、四人の母親たちが互いに気遣いつつも帰り支度を進めている。
 歩道沿いの植え込みに近い入り口に設置された時計はもう午後五時近くを指しており、冬場なら夕焼け放送も鳴り止んでいる時間だった。だが母親たちの話題は尽きない。県道沿いに新しくできた小児科は腕は確かだが駐車場スペースが狭いため、子供がドアを開け放つと危なかった。ドラッグストアでパートに出ていた尾崎さんが辞めてしまってアルバイトの質が下がっている。二週間前に頼んでおいたベビーパウダーがまだ来ない。末の息子が母乳を飲みたがらなくてグルメで困っている。母親たちはたき火に薪をくべ続けるがごとく、手にはベビーカーやら上のお兄ちゃんのゴムひもやら買い物袋から透けるお菓子を狙う妹の攻撃やらをせわしなくあしらいながらも、どうにかして話題を絶やさぬようにと喋り続ける。
 一方、放って置かれた子供たちは砂場で思い思いの都市計画を進めていた。金野家の次男坊、今月で6歳になる拓人くんが手に持ったシャベルで熊のように荒っぽく地層を削り取ると、砂粒が目に入ったらしい佐野亜希子ちゃん(7)が火のついたように泣きだし、大分伸びた髪に泥粒が付くのもいとわず汚れた手で顔やらなにやらをかきむしる。その弾みで目下建設中であったドーム型の建造物があえなく大破し、指先を蹴られた久保大志くん(5)が亜希子ちゃんにつかみかかろうとしていた。大志くんがよろめいて踏みしめた場所は運悪く拓人くんが建造中の「ウルトラタワー」であり、逆上した彼が埋め立て用のバケツと手に持った重機で半壊したドームにとどめを刺しかかった所でママの甲高い声がすべてを遮った。
 こらぁ、たっくん何してるの!
 一喝を受けた拓人くんからかつての勢いは吹き飛び、あとはママに引きずられるがままに都市開発からの撤退を余儀なくされた。一方で亜希子ちゃんのママはまだドラッグストアのポイントカードの交換レートが下がったことへの憤りが冷めず、ちらと目を向けるだけでそのまま立ち話を続けようとする。だが帰宅のタイミングを見計らっていた久保さん宅のママがすかさず好機に乗っかり「子供たちも飽きちゃったみたいだから……」とそそくさとベビーカーを押し始める。ベビーカーのボディはよく見ると何かにぶつけた傷が目立つ。その傷を自分の腰の影で少し隠すようにしながら、パパの運転が荒いからだ、こないだも大志がドアを開けた時に、などと苛立ちを思い出していた。
 やだぁ、いたいのぉ!
 子供が発する金属質の叫び声だけはどうにも許せずカナル式イヤホンなしでは外を出歩けない荘介であったが、彼は無事に菜摘のマンションへと到着し、ドラッグストア閉店時間の二十二時までの猶予を彼女に確認すると、例のごとく身体の距離を寄せ、甘い声の温度を上げようとしているらしい。菜摘は耳元に寄せられた荘介の吐く息に震えつつも、耳の中に唾液がまとわりつく感触がどうにも堪え難く、制服がシワになるから脱がせてと荘介の興味を外にそらそうとする。そんな攻防も知らずに荘介は誘われるがまま菜摘の腰へと手を伸ばし、口づけを交わしながらキャミソールの下の金具をはずそうとする。だがソファーに寝そべりながらではうまく腕が伸ばせず、勢い余って二人の前歯がぶつかり合いそうになり、菜摘の方が無理な体勢で上半身を持ち上げることでどうにか事を進められた。
 やだぁ、荘介なにしてるの。
 唇を引きはがした菜摘の訴えを聞いてか聞かずか、荘介は菜摘の肌着を外すことに執着する。次第に彼女の腕が抵抗を緩め、みずみずしく色めく肌があらわになると、荘介が柔らかなドームに唇を寄せようとした。刺激に反応して耳元で子供があげるような高い声が鳴る。奇しくも二人の姿は十数分前に亜希子ちゃんが架空の建造物を破壊した格好とよく似て見える。そのせいだろうか、菜摘の裸身はその娘のあげる声のようにもろくはかなく、指の隙間からさらさらとこぼれ落ちてしまう。
 天井照明の白い光、白いソファー、かつて白くなかったはずのフローリングまでもが波打ってみえる。この部屋の何もかもが淡い熱を放ちながら砂漠のようにほどけていく。すると建物全体がずしんと揺れ動き、巨大な怪物に踏みつけられたような痛みを覚え、思わずそこから落ちて、転がり落ちていく。そこに散らばったのは部屋の残骸、いやかつて「部屋」と称していた空間、小さな箱、あの白い単なる空き箱であった。
 書き物机からは幻視したはずの町並みやコンビニエンスストアや児童公園や工業地帯が忽然と消え失せ、二人の男女どころか、砂粒一つ消え失せていた。そもそも、白砂や石膏などははじめから存在しない。
 「再生紙で作られています」などと書かれているラベルの裏側、箱の壁をひっくり返して眺める。小さく見えたメモには次のように書かれていた。

 『これは箱である。中身はまだ……ない。』