どこにも行けない以前にどこにもいられないのだということ

 米津玄師の歌詞に「どこにも行けない」というフレーズが頻出する件がちょっと前のネットで盛り上がってたけど、時代を代表してしまった作り手の言葉だけに、この「どこにも行けない」も時代の閉塞感だとかを言い表す一種の軋み、悲鳴なのだろうなとは思う。なんちゃって。
 でまあそれに対して「どこかに行こう」(神聖かまってちゃん「死にたい季節」)とか「逃げよう!」(土井玄臣ナイチンゲール」)とかが救いとして提示されるのもなんとなく一貫していて、みんなファンタジックに逃げたいんだな、ここではないどこかへ、そういや異世界転生ものってそういう文脈でもあるのかもな、なんてエセ社会学チックなこともぼんやり思ったりする。
 ただ、ここではないどこかに行きたいと願う人はすでに「ここ」には在籍しているわけで、ある場に在籍するってことはその場が持つ価値観やルールに従えているということで、そこに個と公との摩擦はあれど少なくとも存在はできているのでは?とも考えてしまう。いや、贅沢言うなとまでは言わないけど(かくいう自分もある一定空間に所属できてしまっているだろうし)。
 つまり「どこにも行けない」の前段階として何らかの社会的空間に所属することがあって、それすら叶わない、「どこにもいられない」があるのかもしれない、いや自分そうだったし、と最近よく考えてた。
 よく「逃げていいんだよ」という甘言への皮肉として「逃げた先のことは保証できないけどな」なんて返しがあるけど、たとえば「どこにもいられない」は逃げ出した先の、感動的なエンドロールの後に続く日常の逃れがたさ、重たさを指しているのかもしれない。どれだけ逃げ出せても所詮はお釈迦様の掌の上、というか身体という重石からは逃れられないわけで、結局は逃げ出した先の新天地で社会規則と折り合わせなければならなくて、もしそれすら叶わなかったとしたら、「どこにも行けない」を越えた先にすら「どこにもいられない」が立ち塞がるのではないか。

 ある創作物を高く評価する、感じ入る人たちの集団が発生すれば、そこはひとつの場となる。この想像上の社会空間が逃げ場の一つとして機能するなら、わたしがそこに掲げたいのは「どこにもいられない」人のための旗である。逃げ疲れて動くこともできない人の目や耳に届いて、ファンタジーであったとしても社会空間を発生させたい。今でもそう願っている。
 けれどもそこで問題なのは、本当にどこにもいられない人はわたしなんかが作った空間についてもいられないはずで、というか、わたし自身がきっとどこにもいられない人だから、自分の建国した国から亡命せざるを得なくなるという皮肉である。
 種を蒔いて歩き続けるしかないのだろうな、と諦めを付けつつある。「どこにも行けない」がブレーメンの音楽隊だとしたら、「どこにもいられない」はハーメルンの笛吹きなのだ。前者はどこかで許される場所を見つけることができたが、後者は子どもをたぶらかすだけで、村人から退けられ続ける。そもそも音楽隊を組織できた時点で居場所が存在しているのだ。「どこにも行けない」人たちの可能性が今はまだ眩しい。