潜水アリス

 プールは海ではない。際限なく広がってゆくあの深い暗がりと違って四辺を壁に隔てられたその場所は泳いで行けばやがて終わりにたどり着いてしまう。重力を忘れたモラトリアムからひとたび醒めてしまえば手に残るのはあの白々しい塗料とこびりついた赤錆の影だけで、それでもとターンして塩素を溶かした偽物の海をかき分けても、かき分ける毎に、壁、壁、壁。
 夜、浴槽に身体を沈める時、私はときどき顔を浸けてみる。小さい頃は頭までどっぷり潜り込んだこともあったけれど、さすがに髪の毛を沈めるほどの歳でもなかった。目を閉じて、瞼の暗幕を漉して透けるわずかな明るみからも目を背けて、暗く暖かい水に入っていく。自分の身体が発する音を聞き、換気口が漏らすため息を遠くに聞き、手足の重みを忘れて、記憶にない懐かしい場所を思いだそうとする。人は一人分のプールで生を享け、二人で身体を重ねて重力を忘れあい、水浴びを繰り返してプールに愛を宿してゆく。やがて乾ききって、蒸発して、最期には煙となって雨粒の種として空に溶けてゆく。どこかへかえりたいとき、水に身体を沈めていく。小さな死が身体の芯まで染み込んでいき、形のない夢を繰り返し舐め続ける。
 これはきっと忘れてゆく言葉だ。水は形を持たない。焼けるほど冷やして形を求めた年月を長く過ごしたけれど、そのようにして水を手にしようと拘泥したけれど、手に残ったのはまがい物ばかり、あの壁のように指先を焼いてはほどけていった。飛び込み、抱かれたあの場所で待ち合わせを取り交わしても、約束は氷のように溶けてしまう。言葉でつかめるものもそのくらい危ういものなのだから、砂粒を集めてお城を築く遊びはやめにしよう。あなたにふれたい、髪を乾かせば忘れられてしまう私が、今はまだ、あなたを確かに求めている。
 その日、あなたはせせらぎのようにたゆたっていて、私はまた息を止めてしまう。名前をよぶ、その形を舌で感じる、あなたはまだ私の恥を知らない。