秒針の隙間から伸びた、


  少年のイデアは呟く、
  「……意識を介在させてはいけない。
   防波堤はカタストロフィーの布石さえ演じられぬのだから。」


──午前七時四十二分

 等間隔に配置された街路樹の下を抜け、彼は停留所に向かう。
 眠りから醒め切らぬ街。躁病を抱えたスーパーマーケット。流動性を固持する乗用車の群れ。
 弛みに絆されるその感覚は彼を厭世観に染めかけるも、所詮はコピーペースト故、途切れる。
 そして劈く不快感。
 眼界にノイズの如く走る少女たちの嬌声が彼を現実に縛り付ける。
 自動的な歩み。ほら、もうバスが来る。急がなきゃ。パブロフ。


  それはさも悲しげに、
  「生まれつき歯車として生きていたかった。
   せめてそんな風に思われていたかった」と。


──AM 08:17

 バスの中、整理券を吐き出す装置に寄り掛かり、黄色いアクリル樹脂で包まれた手摺りに腕を絡める。
 座席はまばらに埋まり、人間の音が響き合うのが遠く聞えている。
 車内での立ち位置は固定されていた。
 彼は固定する事を好んだが、固定されるのも許容できた。
 食欲に似た生命維持装置に身を委ねる日々は、恒常性に欠けるのだ。
 翻って予定調和は母の腕の中のように柔らかく、慈愛に満ちている。
 そういえば、最後に他人の皮膚に触れたのは、いつの事だったか……。

                  ――何かが聞えた。

 咄嗟に理解が追いつかず目を四方に走らせる。誰が?
 誰だ ?
 車内アナウンスだった。遅れて、理解が触れる。あの野蛮な声は、路上に這うガムの残骸の声は―

「聞こえて□んです□? バスの□テップに立□ないでくだ□い、いい加減に


 反響。反響……視線が、無数の目が―動けない―四方に飛び散る意識が、足元が、足元が沈み込む―
 目が、眼球が、血の通う眼球が、無数の瞳孔が、虹彩が、

 潰されるんだ!!
 殺される、殺される、血の海になって僕はやけつくような火を、非を咽頭に押込まれて腸壁が瓦解するのに

『ねえ、あのひと、なんかこわくない』
『前も見たよ、確か途中のバス停でのってくるひとだ』
『だいじょぶかなあのひと』
『あのひと』
『あのひと 』
『 あのひと 』『あのひと』『あ の ひ  と』『あ の ひと』『あ の  ひ と』『あの ひ

 食道に焼け付いた破片を、傍観,連なる傍観、十字架は誰の殺サ,繝九Η繝シ繧ヲ繧 ァ

 

  。

   、


 その瞬間、見た。
 見えた。
 窓の外に。

                    手 ?

 

──AM 08:19:02
 僕は見た。
 窓の外、雑木林に見守られた、空白のような畑。
 錆付いた土の海から一本の手が伸びているのが見えた。

  手

 白い。
 肘からずっと、宙に向けて、星を取る子供のように、あどけなく。
 誰かが置き去りにしたのか?
 用済みで?
 或いは、奪われた手か?
 子供のように玩具として『手』を奪い、飽きて放ったのか?
 切除したのか、ならば、どう、何を以って?
 同意はあったのか。同意して手を切る、否、自ら手を切る、肘ごと?


──AM 08:19:57
 疑問符が胸を浄化して、気づくと真実だけが残されていた。

 違う、あれは『手』だった。
 紛れもなく救いの『手』を差し伸べられたのだった。

 しばらくしてバスが止まり、僕は降りた。
「あそこに立たれるとドアが開かなくなったりして、困るんですよ」
「すみません、うっかりしてて」
 そんな、笑える程自動的な。


──夕方、五時過ぎて

 日の落ちた薄闇に目を凝らし、帰りのバスの窓からあの畑を見る。
 あったのはやはり、引っ掛けられた白いゴム手袋だけだった。
 あの瞬間、秒針の隙間に見えた猟奇は、自分の記憶だけに固定しようと考えた。

 いつもどおり家に着いて。僕はこうして。
 たぶん明日も。また。


潜水アリス

 プールは海ではない。際限なく広がってゆくあの深い暗がりと違って四辺を壁に隔てられたその場所は泳いで行けばやがて終わりにたどり着いてしまう。重力を忘れたモラトリアムからひとたび醒めてしまえば手に残るのはあの白々しい塗料とこびりついた赤錆の影だけで、それでもとターンして塩素を溶かした偽物の海をかき分けても、かき分ける毎に、壁、壁、壁。
 夜、浴槽に身体を沈める時、私はときどき顔を浸けてみる。小さい頃は頭までどっぷり潜り込んだこともあったけれど、さすがに髪の毛を沈めるほどの歳でもなかった。目を閉じて、瞼の暗幕を漉して透けるわずかな明るみからも目を背けて、暗く暖かい水に入っていく。自分の身体が発する音を聞き、換気口が漏らすため息を遠くに聞き、手足の重みを忘れて、記憶にない懐かしい場所を思いだそうとする。人は一人分のプールで生を享け、二人で身体を重ねて重力を忘れあい、水浴びを繰り返してプールに愛を宿してゆく。やがて乾ききって、蒸発して、最期には煙となって雨粒の種として空に溶けてゆく。どこかへかえりたいとき、水に身体を沈めていく。小さな死が身体の芯まで染み込んでいき、形のない夢を繰り返し舐め続ける。
 これはきっと忘れてゆく言葉だ。水は形を持たない。焼けるほど冷やして形を求めた年月を長く過ごしたけれど、そのようにして水を手にしようと拘泥したけれど、手に残ったのはまがい物ばかり、あの壁のように指先を焼いてはほどけていった。飛び込み、抱かれたあの場所で待ち合わせを取り交わしても、約束は氷のように溶けてしまう。言葉でつかめるものもそのくらい危ういものなのだから、砂粒を集めてお城を築く遊びはやめにしよう。あなたにふれたい、髪を乾かせば忘れられてしまう私が、今はまだ、あなたを確かに求めている。
 その日、あなたはせせらぎのようにたゆたっていて、私はまた息を止めてしまう。名前をよぶ、その形を舌で感じる、あなたはまだ私の恥を知らない。

夜の起源について

フラクタルの種を蒔いた
それは短かな数式の形をしている
三角形と平行四辺形と
割り切ることができる種だ
なぁに
もとは 借りた本に挟まっていた種だと
余らした一粒を爪で割る
それは無数に重なった小さな三角形と
細く伸びた平行四辺形と
割っても 割っても 無限に分かれてゆく
爪に溜まる皮の一かけらまでも
三角形と 平行四辺形と 原子核の孤児と

朝が来て
芽吹いた種は天を貫き
すべすべと堅い木肌を誇り
根本から 植木鉢を突き破って
無限に枝分かれして空を刺す小枝の形は
よくみれば
肌を刺す三角形と おぞましく伸びた平行四辺形と
麓の町すら呑み込む
黒く覆い隠した
踏みつけた葉をひろう
葉脈にすら刻まれた 幾何学文様を
あきれて 爪でなぞる間にも

その日
紀元前から続いた白夜が終わった

neoteny flower

 道の上に男がいる。両脇を果樹園に挟まれ、輪郭の薄れた山麓へと続く人通りの多い道端で男は小石と共に転げている。その道は舗装が甘く、分離帯の色すら黒く薄れており、道を行く人々はそれぞれ好きな場所を好きな速さで歩くが、その中で彼に気づく者はいない。彼はときどき自分が見えないガードレールにきつく囲われたように身体をまさぐったり、自分を取り巻く気体に向かって溺れたように腕を振ってみるのだが、そこにもさわれるものなど何一つない。
 やがて男は肩の痛みに堪えきれず荷物を地面へ下ろす。発汗した肩紐を外して土の上に置く寸前、目を覚ました重力が荷物を引っ張る。接地、同時に小さな土煙があがる。このとき彼は初めて自分の荷物の重さを、次いで自分が荷を負っていたということを知った。と、同時にいったん自分の身から切り離してしまった荷物が己のものだとも思えなくなる。むしろ、自分の方こそ今までこの荷物に所有されてきたのではないか。荷を失って軽くなった身体が風に飛ばされてしまいそうに思えて、つい何かにしがみつこうとする。だがそこに掴まれるガードレールはない。
 空をさまよう彼の手もまた地に落ち、そこで果樹園の敷地からはみ出た小さな植木鉢へとたどり着く。実にまばゆい花だ。彼の膝ほどの背丈に育った花が風に首を傾げる。花びらの白はみずみずしく男の目を射す。そうだ、おれはこの花を育てていたのだ。男は伸びやかな茎と純白の花びらに改めて魅了される。
 プラスチックの植木鉢によって果樹園の土から遮断されたその花は猥雑な植物たちの作る木陰の下でも凛と背を伸ばし、貞淑ながらも可憐な花を咲かせている。茎は小川のせせらぎを一本掬い取ったようにまっすぐ透き通った緑で、だが恐る恐る触れるとそこには確かな産毛が柔らかく生えている。細くたおやかに締まったその茎を彼の指先は幾度となく愛撫した。触れながら目を閉じると茎を流れる生命の脈動を感じる。閉じた目蓋には流れる血潮がうら若きおとめの胸元に浮かぶ静脈の青よりはっきりと映った。
 茎を愛撫しては茎へと養分を満たす土にすら嫉妬する彼はしかし、花びらに手を伸ばすことはない。花びらの白は太陽の光を濾し取ったように眩しく、触れれば彼の不健康な指を瞬きの間に焦がしたことだろう。気高い白はみだらに生い茂る樹木の緑の足下にあっても濁ることがない。彼女の白は周りの色すらも清めるほどだ。それは男の視界で沈む陽の赤を淡い口紅のように映し、月影の青をドレスのようにまとってみせた。
 妖精の羽のように風に揺れる花びらに彼はどれほど触れたかったか、いや口づけを交わしたかっただろうか。男は花を噛み砕き、啜り、咀嚼する時を浮かべては腹の奥で灯った熱に身悶えした。だがこうした夢想を一通り舐めつくすと、そこで彼女を穢したことをひどく恥じた。
 永遠の美を体現した一輪の花。彼女にかしずく男は土に手を加え、陽の照りぐあいをわが事のように憂い、そして潤いを絶やさぬようにと水を毎日捧げる。如雨露から柔らかな雨を浴びる彼女は一糸まとわぬ姿で清流と戯れる少女の姿を思わせる。無邪気に水浴びをする彼女を男は娘とも母ともつかぬほどいたわった。太陽と土と水しぶきの恵みを受けて花はますます美しさに磨きをかけるだろう。
 と、背後の足音に気づいて男が飛びのく。通行人がいぶかしげこちらを一瞥して通り過ぎた。彼女の色気に惑わされたのだろう。男はそう決め付けると歩道に背を向け、植木鉢に咲く造花を人並みから隠した。


腹式呼吸

息を止める
胸に手を当てる
目を閉じて 胸の音をきく
おまえが殴る

星が見えた!
ふたつの耳が言った

息を止める
胸に手を当てる
鼓膜を固めて骨の声にふれる
おまえが殴る

旋風が聞こえた!
中指が骨を見下ろした

息を止める
こぼれる骨を押さえる
赤い手 濡らしながら
おまえが殴る

白 白 白
重みが奪われる
指の叫び声が途切れ

息を止める
動かない腕を持ち上げる
圧力装置を揉みほぐす
おまえを待つ

これは神と話す
想像力のゲームだ
ちらばった私を集めて
次のおまえが殴るのを待つ

追悼

ふたつの指で上手く囲うと
そこに隙間ができる
ひそかに這い出たのは
泥人形のような

まぼろしがしんだ
橋から落とされて
油膜をつきやぶって
月の欠け方も忘れて

恩知らずめ

中指と薬指から
涙がにじみ出る
キャラメルマキアート
上映中のランプ

どんな味がしても
溶けてしまえばそれまでだ
まぼろしがしんだ
かみさまをやめた

ゲームセンター挽歌

僕はここにいる

暖房は切れてしまった
ピンボールゲームも動かない
窓ガラスが僕を見る
夜空に焼き付く男は 心霊写真のようだ

暗い箱を掲げて
のぞき穴を奪い合った
さかさまの子供たちの踊り
サイダーに酔いつぶれた

ピンホールカメラの季節は終わった
アルミ缶に蹴躓く
からんからんと
部屋の壁を何度か跳ねて 消える

僕はまだここにいる

音のない夜景を眺めに来たのだ
町の灯は星より弱く
さかさまの大人たちの踊り
フィルムはお化けを見つめたまま

ピンボールゲームの季節が終わった
ここでは誰もが自分の声を
確かに聞くことができる

からんからんと
ほら 確かに聞くことができる