neoteny flower

 道の上に男がいる。両脇を果樹園に挟まれ、輪郭の薄れた山麓へと続く人通りの多い道端で男は小石と共に転げている。その道は舗装が甘く、分離帯の色すら黒く薄れており、道を行く人々はそれぞれ好きな場所を好きな速さで歩くが、その中で彼に気づく者はいない。彼はときどき自分が見えないガードレールにきつく囲われたように身体をまさぐったり、自分を取り巻く気体に向かって溺れたように腕を振ってみるのだが、そこにもさわれるものなど何一つない。
 やがて男は肩の痛みに堪えきれず荷物を地面へ下ろす。発汗した肩紐を外して土の上に置く寸前、目を覚ました重力が荷物を引っ張る。接地、同時に小さな土煙があがる。このとき彼は初めて自分の荷物の重さを、次いで自分が荷を負っていたということを知った。と、同時にいったん自分の身から切り離してしまった荷物が己のものだとも思えなくなる。むしろ、自分の方こそ今までこの荷物に所有されてきたのではないか。荷を失って軽くなった身体が風に飛ばされてしまいそうに思えて、つい何かにしがみつこうとする。だがそこに掴まれるガードレールはない。
 空をさまよう彼の手もまた地に落ち、そこで果樹園の敷地からはみ出た小さな植木鉢へとたどり着く。実にまばゆい花だ。彼の膝ほどの背丈に育った花が風に首を傾げる。花びらの白はみずみずしく男の目を射す。そうだ、おれはこの花を育てていたのだ。男は伸びやかな茎と純白の花びらに改めて魅了される。
 プラスチックの植木鉢によって果樹園の土から遮断されたその花は猥雑な植物たちの作る木陰の下でも凛と背を伸ばし、貞淑ながらも可憐な花を咲かせている。茎は小川のせせらぎを一本掬い取ったようにまっすぐ透き通った緑で、だが恐る恐る触れるとそこには確かな産毛が柔らかく生えている。細くたおやかに締まったその茎を彼の指先は幾度となく愛撫した。触れながら目を閉じると茎を流れる生命の脈動を感じる。閉じた目蓋には流れる血潮がうら若きおとめの胸元に浮かぶ静脈の青よりはっきりと映った。
 茎を愛撫しては茎へと養分を満たす土にすら嫉妬する彼はしかし、花びらに手を伸ばすことはない。花びらの白は太陽の光を濾し取ったように眩しく、触れれば彼の不健康な指を瞬きの間に焦がしたことだろう。気高い白はみだらに生い茂る樹木の緑の足下にあっても濁ることがない。彼女の白は周りの色すらも清めるほどだ。それは男の視界で沈む陽の赤を淡い口紅のように映し、月影の青をドレスのようにまとってみせた。
 妖精の羽のように風に揺れる花びらに彼はどれほど触れたかったか、いや口づけを交わしたかっただろうか。男は花を噛み砕き、啜り、咀嚼する時を浮かべては腹の奥で灯った熱に身悶えした。だがこうした夢想を一通り舐めつくすと、そこで彼女を穢したことをひどく恥じた。
 永遠の美を体現した一輪の花。彼女にかしずく男は土に手を加え、陽の照りぐあいをわが事のように憂い、そして潤いを絶やさぬようにと水を毎日捧げる。如雨露から柔らかな雨を浴びる彼女は一糸まとわぬ姿で清流と戯れる少女の姿を思わせる。無邪気に水浴びをする彼女を男は娘とも母ともつかぬほどいたわった。太陽と土と水しぶきの恵みを受けて花はますます美しさに磨きをかけるだろう。
 と、背後の足音に気づいて男が飛びのく。通行人がいぶかしげこちらを一瞥して通り過ぎた。彼女の色気に惑わされたのだろう。男はそう決め付けると歩道に背を向け、植木鉢に咲く造花を人並みから隠した。